数え年

22(歳)あたりから自分の年齢をパッと
答えられない。ボケてる性格もあんだ
ろうけど、その年の誕生日が来て◯◯歳
なのか、訊かれたその時に◯◯歳なのか
がゴッチャになり面倒くさい。
とにかく苦手。
つかみんな今年何歳でいいじゃん別に。

こんな事を書いてみようと思ったのは
「落語の国からのぞいてみれば」
(堀井憲一郎著)を読んで、都合の良い
言い訳が見つかったから。

落語をフィルターとして江戸時代の
感覚、社会を解釈したもので、
自分にとっては共感する部分の多い
本でした。

昨今流行りの
「江戸時代に学ぼう」
「本来の日本人は....」
的説教、または押し付け感がない
ので既に2〜3人に薦めたくらい。

例えば、この中のトピックの一つ
数え年と満年齢についての話。

もともと数え年は大人の都合による
表現、満年齢は子供側の表現だと
言う。

「この社会にお前は足掛け何年いるんだ」
つうのが数え年文化の根拠で、
言ってみれば、

「お前の(同時に自分の)誕生日などおっかぁ
以外関係ねぇ。何月何日だろうがココ(この社会)
にやって来た年が1歳よ。我々と共に正月越し
たら2年目。そこでお前(自分)は足掛け何年目
かっつう話よ」といった具合。

一方満年齢は「丸まる◯年生きられました」
つう自分発信型のミーイズムであるから
大人はそんな表現をする発想がない
社会だったと。

だから逆に、親が子供に対しての場合は
誕生日の概念がちゃんとあって、
それを満年齢的数えに使っていたそうです。
「今日で◯年生きられたねぇ、よかったねぇ」
という意味で。
でもその子供が大人になったら使わない。
だから大人は自分の誕生日など知らない。


納得しました。

コレを読んで自分も、
生まれた年を0歳とするか1歳と
するかの違いこそあれ、大方こういう
感覚でいたのではないか、と。
コレよコレコレ!的に強い味方を
見つけた感じ。

現代にいる自分にとっては、
身近な人の誕生日をおざなりには
できないけど、自分のや他人のそれ、
全くどうでもいいもんなぁ。
何年生まれかさえ分かれば十分。

とか言いながら自分が
誕生日おめでとうと言われたら
素直に「やや、ありがとう」
なんつって喜ぶんだから
いい加減なモンだけど。

でも、満年齢制度が施行された理由や
善し悪しは別として、この本の解釈に
より、初めて数え年の概念がストンと
腑に落ちたのは事実。

子供以外、大人なら私的なことは
後回し。私的な事はごく親しい人と
分かち合う、っつー社会だったとも
言える。

なんちゃってーねー。

明日はスタジオです。
| - | 03:44 PM | comments (2) | trackback (0)

コメント

江戸町民の暮らしが舞台になった時代小説が好きな私、今回ご紹介の本にとても興味を持ちました。そそりそそりです。
そーいえばうちの姉の旦那も自分の年齢ぱっと言えません。理由は興味がないからっていうのと覚えていても無駄なものなんだって。
| ど | URL | | 2008/09/29 12:20 AM | B4REmx2I
書評めいたことなど分不相応ではありますが、全体的に「個性と社会(属性?)」がテーマの本だと思います。
こい言うと「固っ苦しく」感じるかもしれませんが、全く逆。
パパパっと読めちゃうタイプです。あと当然、落語が聴きたくたります。
講談社現代新書です。
| ヨコヤ | URL | | 2008/09/29 12:18 PM | bCf10S9g

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